「こんにちはカズマ、また少し大人っぽくなったか?」
はにかみながらこちらへ話しかける穏やかな青年は、前世で様々な障害のせいで添い遂げられなかったバロック・バンジークス卿である。
この男は記憶にある限りクイーンズイングリッシュしか口にしていなかった筈だが、何の気まぐれなのか今は日本文学の研究をしているという。
初めて出会ってから百年以上経過した時代に幸運にも再会できたと思ったら、彼はまたイギリス人で自分はまた日本人だったし年齢差もそっくり同じ九歳差だった。まぁあの時と違って父も彼の兄も健在なので、二人がテレビ通話をしているときに初めて顔を合わせて以降はこうして自分のスマホ越しに彼と直接通話をしている。いい時代になったものだ。
前世では《死神》の汚名を背負い陰気な面が目立っていたが、本来はとてもおっとりとした気質で押しに弱い天然で、そして優しい男であることも知っていた。だからこそ叶わぬ恋をした。
彼が敬虔な基督教徒であることも、同性愛を禁じる法律すら律儀に守る法の番人であることも理解していた。それでも好きだった。
あなたのそばにいるのは俺だけが良い、あなたの喜んだときの花が咲いたような控えめなほほえみが好きだ、あなたが苦しみ悲しいときは、俺がすぐ隣でずっと支えていたい。
―――ともに人生を歩んでいきたい。
その気持ちだけは誰に言えなくてもずっと捨てる気はなかった。
本人には知っていて欲しいが知られたら傷つけるかもしれない、でもあなたに俺の気持ちは届けさせて欲しい。
日本に帰国してから定期的に書く手紙には、他愛もない話や仕事の話を書いた英語の文章と、ありのままの気持ちを綴った日本語の文章を忍ばせていた。
あなたは極東の小さな島国の言葉なんて知らないだろう、だから好き放題包み隠さずありったけの想いを込めて書いた。
読めるなら読んでみろ、どうせ読めないだろうし読む気もないだろう。だがそこに書いてあるのが俺の本当の気持ちなのだ。
馬鹿だとは思ったが、自分の嘘偽りのない気持ちを直接送ったことで多少スッキリはした。
後悔も未練も山のようにある。だが思ったより早くてあっけない訃報の電報が届き、俺達が文通できた期間は数年かそこらだった。
最後の手紙は庭で燃やした。パチパチと空に昇る煙を見ながら、あの世でも俺の手紙が読めないままだと良いと思った。
………………思っていたのだが。
「……もう一度聞いて良いか?今何と?」
「だから、カズマにもらった手紙を当時きちんと読めなかったのが悔しくて、日本語を一から学ぶことにしたのだ」
「何のことだろうか。手紙は全て英語で送ったはずだが」
……話の流れが怪しい。この男は当時日本語が読めなかったはずだ。読めない言語で書かれた意味不明な文書などさっさと捨てられる、その前提で送っていたのだが。
……まさかこの男、あの手紙を現代まで残しているのか?!
「最初は私も意味が分からず、何かのメモが紛れていたのかと思った。だがメモにしてはあまりにも『文章』過ぎる。気になって仕方がなかった」
「そんな意味の分からない紙切れなど捨てれば良かっただろう」
「…………二通目の手紙が来たときにも日本語の手紙は入っていた。これはいよいよ何かの意図を持って私に届けられていると確信したのだが、あいにく当時私の周りには日本語が流暢な人間はいなかったのでな。ミスター・ナルホドーに送って翻訳を頼んだ」
「ハァ?!?!」
「キミに聞いても絶対に口を割らないと思って……」
頭痛がする。まさか残されていただけではなく親友に送られていたとは……!くそ、成歩堂のやつめ!俺にそんなことは一言も言わなかったぞ!
ということは俺の気持ちは成歩堂どころか下手をすれば御琴羽法務助士にも筒抜けだったことになる。あまりにも最悪すぎる……。後で問い詰めねばならない。
「……それで?親友は何と翻訳したのですか」
「ミスター・ナルホドーからの返信には『僕にはできません』と書かれていた」
画面の向こうの男が寂しそうに笑う。
今すぐ画面の奥に手を伸ばして抱きしめてやりたい。何年経とうが時代がどれだけ変わろうが、ずっと馬鹿みたいに好きだった。
「この手紙にはキミの切実な胸の内が語られている、とても自分にはそれを読み上げることはできない。本人に知られたら斬られてしまうと……」
「命拾いしたな、成歩堂め」
「では、わざわざ日本語で読めないようにした上で語られる切実な胸の内とは何か?カズマは短気だから悪口や嫌味をわざわざ長文で書くことはしない」
「喧嘩を売っているのか?」
「そうすると、ある可能性が浮上した。悪意ではなく、好意が綴られているのではないかと」
「…………!!」
「尊敬や感謝、そういった普通には伝えられない好意。私に簡単に知られまいと日本語にされた文章。それでも届けたかった胸の内。すなわち、これはカズマが私に宛てた恋文ではないか?と思ったのだ」
「ぐおおおおおおお!!」
さすが元倫敦一の検事、この俺が素直にその才能を認めて師事を申し出たほどの男。率直に頭が良い。まさか当時にそこまで当てられているとは思ってもいなかった。
「確証はなかったが、具体的な内容が分からなくてもキミの大切な気持ちが書かれているのは間違いないと思った。だから机の引き出しに鍵をかけて、誰にも読めなかろうが誰からも触れられることがないように大切に守ることにしたのだ。まさか百年以上経過して私本人がその鍵を開ける日が来るとは思わなかったが」
「……はぁ〜」
思わず大きなため息が口を衝いて出てしまった。
内容が分からないのに誰にも見せずに大切にしまわれたという手紙。俺があなたに宛てた気持ちだと知った上で大切に保管していたのだとしたら、そんなのもう、答えなんて一つしかないではないかと期待してしまう。
「あの手紙が捨てずに保管されていたのは意外でした」
「やはりあの手紙はキミから私へ宛てた恋文だったのか」
「ええ、まぁ……。読まれたところで断られるのは分かりきっていたので、読まれないようにわざと日本語で書きました」
「そうか……そうだったのだな。ちなみにあの手紙は今でも有効なのか?」
「有効も何も、変わらずずっと好きに決まっているが?!……………………あっ」
「……ふ、ふふっ…………」
「わ、笑うな!!キサマはどうなのだ!さっさと返事をよこせ!」
照れくさそうに笑うその顔にかつての《死神》の面影はもうない。
ああ天使のようだな、と思ってしまうほどに俺はこの男にどうしようもなく惚れている。
「まず、カズマの気持ちは何となく察してはいた。だが法にも神にも背くことができず、気づかぬふりをしてしまった無礼、お許し願いたい」
「許さん」
「そう拗ねないでくれ……。だが、その気持ちが心地良くて身を委ねそうになる誘惑に何度も負けそうになるくらいには、私もカズマのことを好ましく思っていた」
「本当に?」
「嘘などつかぬ。……キミが帰国する日、港まで見送りに行ってしまえばきっと私は年甲斐もなく号泣してしまう。そう確信していたから、敢えて出張のフリをして職場に駆け込んだ。……臆病な男だと、軽蔑して構わない」
「あの謎の出張はそういうことか……」
当時、俺は全ての見送りを断って最後は世話になった師匠と二人になりたかった。
だというのにこの男は「急な出張が入った、すまない。どうか元気で」と慌ただしく俺より先に屋敷を出ていった。
そんな予定など全く聞いていなかったし、あんなに朝が弱くて毎朝俺が必死に叩き起こしていたくせに、その日だけは異様に早く起きて既に支度を済ませていた。
結果、俺は一人寂しく日本へ帰国することになりこの男への気持ちを拗らせてしまったわけだが。
「帰ってきて、カズマがもうこの家にいない現実を突きつけられたとき……どうしようもなく悲しくて、胸が苦しくて、食事が喉を通らなかった」
「…………」
「あの日以降は食事を摂る気がわかず、仕事だけは何とか乗り切っていたがそれも長くは続かなかった。ろくに食べないせいで体が弱っていき、最後は情けなく風邪を悪化させて終わりだった」
「心底驚いたぞ。電報の差出人がミス・アイリスでなければ嘘をつくなと倫敦に乗り込むところだった」
あのときの肋骨ごとギュッと締め付けられるような激情を思い出して、思わず顔を顰めた。
画面の向こうの彼は瞼を伏せ、慎重に言葉を選んでいる。
何も言わずに続きを待った。
「キミへの返事だが、やっぱり手紙で書かせてほしい」
「はぁ?!この状況でまださらに待たせる気か?!さっさと吐け!」
「手紙には手紙できちんと返したいのだ!そのために必死で日本語を学んだのだぞ!」
「駄々を捏ねるな!子供か!」
「今十歳のカズマに言われる筋合いはない」
「ぐっ……!このっ……!」
……そう、悲しいことに今の俺はまだ十歳のガキなのだ。
はたから見れば綺麗なお兄さんにじゃれる幼い子供にしか見えない。俺はそこらの大人が思うよりずっと、こんなにも真剣にこの男が好きだというのに!
「その前にキミに一つ、伝えたいことがある」
「はいはい、何ですか」
「……そろそろ機嫌を直してくれ。実は来年、日本に留学できることになった」
「本当か?!」
「ああ。……前はカズマがこちらへ来てくれただろう、今度は私がそちらへ行きたい」
「ほ、本当に……?!本当に日本へ来てくれるのか?!」
「嘘はつかないと言っているだろう。私は何としてもキミからの手紙を原文で読みたい。カズマの気持ちを全て受け止めたい。だが、今の私の日本語は拙く、平仮名や簡単な漢字は読めるようになったが一昔前の崩し字はほとんど読めない」
「…………おい、まさか」
「自分でも訳したい、だが本人から直接伝えてもらえるのならその方が嬉しい」
「…………ハァ〜〜〜〜〜〜〜」
「こんな男、嫌いになったか?」
「嫌いどころかさらに好きになりましたし何なら今すぐにでも会いたいですけど?!?!」
ヤケクソになって叫ぶと、目の前の男は花が開くようにふわりと笑った。
ありがとう、と唇が動く。
―――《死神》が幸せになるなどありえぬ、自分に近づけば危害が及ぶから恋人も家族も作りたくない。
そうして心を閉ざそうと悲しい顔を堪える必要はもうどこにもない。
正義感に溢れ、清く美しく優しい人だった。あなたのありのままを一番近くでずっと見ていたかったし、あなたに幸せになれと願うのではなく俺とあなたで幸せを掴みたかった。願うだけの関係なんてもうごめんだ。
「手紙は早速今週中に送ろうと思う」
「待て、本当に紙の手紙で送るつもりか?今はラインもディスコードもあるのに?」
「私の日本語の勉強に付き合って欲しい。……それに、ラインやディスコードではやり取りが流れて遡れなくなるだろう。それはいやだ。キミとのやり取りは、全部手元に残しておきたい。だから手紙が良い」
「あ〜〜〜〜〜もう!キサマにベタ惚れな年下の男を手の平で転がすのは楽しいか?!分かった!分かりました!手紙を待ちますよ!」
久し振りにこの男の『不意打ち』をもろに浴びた。がっくりと力が抜けた俺にオロオロと名前を呼んでいる、これで天然100%だから本当に恐ろしい。そしてそんな仕草すら可愛くて愛おしいと思ってしまうのだからもう本当に魂の芯までこの男に骨抜きにされていた。
「……カズマ」
「何だ?」
「…………私の名前を呼んで欲しい。その、今日はまだ、一度も呼ばれていないのだが……」
頬を染めてそっと目を伏せながら控えめに告げられたささやかなお願いに、俺の中の何かが限界を迎えた。
口に出せば止まらなくなるから、敢えて言わないようにしていたというのに!
「不安にさせてすみません。可愛いバロック、今も昔もこれからも変わらず、あなただけが好きですよ」
「な、何を言い出すのだ……!」
「今はまだ十歳なのであなたを犯罪者にしたくないから大人しくしてますけど、あと八年経ったら我慢も容赦もしません。バロック、あなたを抱きたい。今度こそ、骨の髄まで俺を叩き込んでやる」
「は、……え?!」
一瞬で茹でダコのように真っ赤に染まったバロックを見てにんまりと頬がつり上がる。
まだ子供だからと甘く見たか?残念だが積もりに積もったこの執念を舐めないで頂きたい。
「バロックからの返事、楽しみにしていますね」