春色の風

昼下がり、うとうととしだした意識を少し醒まそうとミクリがキッチンに立ったとき、めったに鳴らない呼び鈴がカランと音を立てた。
今日はコンテストの審査員として呼ばれていて、久しぶりに客観的な立場でコンテストを隅々まで見ることができたので気分が晴れやかだった。爽やかな香りのレモングラスと庭先で育てたハーブを数種類ちぎってポットに入れてお湯を注ぐと、部屋の中にも暖かな木漏れ日が降り注ぐ。
「ミクリさん、こんにちは」
ドアを開けるとそこに立っていたのは先程のコンテストで優勝を飾ったハルカだった。
彼女は先日元チャンピオンであるミクリの友人を打ち負かした少年の友達で(友達と言っても恋人になるのは時間の問題だとミクリは思っているが)、バトルもそこそこ腕が立つ将来が楽しみな少女である。

ミクリは喧騒を嫌う。そのためミクリの自宅を知っているものは数少なく、彼の師匠とミクリの友人のダイゴ、そして先程の少年(ユウキ)とこのハルカのみであった。
ユウキとハルカは歳の割にしっかりと物事を判断できる大人びた二人で、場所は知っていてもめったにミクリの家を訪ねてくることはなかった。何か珍しいニュースでもあったのか、だとすれば友人に知らせると久々にこの家に帰ってくるかもしれない。

「相変わらず何もない家ですまないね。ああ、ちょうどハーブティーを淹れたところだから良かったら飲んでいくかい」
「あっ、ありがとうございます!」
「君が私を訪ねてくるなんて珍しいからね。何か、あったのかい?」
「えへへ……ちょっと相談したいことがあって」
少し目を逸らしながらはにかむハルカは、歳相応の愛嬌があってとても可愛いと思う。
いつもユウキの話をするときにその桜色の頬を少しふくらませていることを本人は気づいているのだろうか。

「あのですね、ミクリさん!」
「ほう」
「ミクリさんって、彼女とかいるんですか?」
「ふふ、またストレートにきたね」
「はい!はぐらかさずに答えてください!」
なるほど、大方ミクリの話を聞いて自分の参考にするつもりなのだろう。
そのついでに現チャンピオンでありコンテストマスターのゴシップでも入手できればラッキーといったところだろうか。あいにくミクリはその手の誘導を嫌というほど受けてきたし、それをかわす術もとうに身につけている。それを知ってなお懸命に直接質問するハルカの純粋な行動力と、その澄んだ瞳の奥に疼く恋心に興味を惹かれ、ミクリは話に乗ることにした。
「彼女、ね。いないよ」
「ええーうそ!隠さないでくださいよ!」
「ふふ、ご要望通りはぐらかさずに答えているのだけど」
「本当にいないんですか?」
「ああ。彼女は、ね。」
「えっ?彼女”は”……?」
手元が熱くなったのでガラスのカップをそっとソーサーに戻す。大きなガラスの窓から差し込まれた光がキラキラとハーブティーを通してテーブルクロスで輝いている。まるで水面のようだ。ミクリはそっとハルカの視線を伺った。
「彼女がいないってことは、ミクリさんは今フリーってことですか?」
「フリー?それは違うな」
「ええっ、でも彼女いないって……」
「ふふ、そうだよ」
「えええ!もしかしてあれですか、一人の女性には決められないからたくさんいるとかそういう……」
「君は私を一体なんだと思っているんだい」
「いや、ミクリさんならありえるかなって思って……」
「失礼な。私にだって一般的な常識はあるさ」
「うう……いや、常識はお持ちだと思うんですけど、何か普通の恋とかしてなさそうなイメージで。それにミクリさんって大人だし、個性的だし、普通の女性一人じゃ釣り合わないと思うんです。もしかしたら誰にも言えないような相手かもしれないし、あたしになんて分からないような相手が恋人なのかも」

これはなかなか鋭いところを付いてくるな、とミクリは表に出さずに広角をゆるく上げた。
ハルカの瞳は相変わらず透き通っていて、その目に映るものはまだまだ色鮮やかな世界に違いないだろう。
だが、ミクリの相手が「普通の一人の女性ではない」「誰にも言えない相手」「身近にいる人物にもわからない相手が恋人」というところを見抜いてくるとはさすがその年でコンテストを制覇し、身近な友人がチャンピオンリーグを制覇しているだけある。

「君は、なかなかいい目をしているね」
「えっ?」
「だいたい今君が言っていたことが当たりだよ」
「ど、どのへんが当たりなんですか?」
「ふふ、それは君が考えたまえ。ところでハルカくん、君に一つアドバイスをしてあげよう」
「アドバイス?」
「そう、君が悩んでいるであろう恋のアドバイスだよ」
ハルカの頬が一気に林檎色に染まる。恋なんてしてませんよ!と手を振る仕草がとても愛らしい。

「君の相手は随分素直になるのが難しい性格だ。でも、君にとても弱い」
「うう、私の相手とかいないです……ミクリさん誰のこと言ってるんですか!」
「おや、君も素直になれない性格だったかな。まあいい。とにかく相手が認めてくれるまでアタックし続けるといいよ。君は純粋な目をしている。相手も君に好意を寄せている以上、そのうち折れてくれるだろう」
あとはそうだな、二人で空のデートでも楽しんでおいで。
ミクリがそうしめたとき、不意に大きな羽音がガラス戸の向こうで響いた。
バサバサとした翼の音に交じる、キシキシと金属がこすれる特有の音がする鳥ポケモンなんて、この世界に一種類しかミクリは知らない。そして、その鳥ポケモンを使ってここまで来るような物好きも、ただ一人しか。

「ダイゴ!」
「やあ、ミクリ。久しぶりだね、元気にしていたかい?」
「お前はエアームドじゃないんだから、いい加減に玄関から入ったらどうだい」
「ふふ、良いじゃない。そんなこと言いながら君が僕に甘いことなんてとっくに知ってるんだからね」
「はいはい。おかえり」
「やあ、ハルカちゃんじゃないか。来ていたの、こんにちは」
「こっ、こんにちはダイゴさん……!?」
何が起こった分からないというように目を白黒させるハルカに、ミクリはふと悪戯心がわいた。

「そうだ、久しぶりにエアームドに乗せてくれよ」
「どうしたんだい急に。別にいいけど、今はハルカちゃんの相手をしているんだろう」
「あっいいです!あたしもう帰るんで!」
「そう慌てることはないだろう。私の話を聞きに来たんじゃないのかい」
「そ、そうですけど……」
「珍しいね。コンテストの秘訣かな?でも今日優勝したってミクリに聞いたけど」
「いや、えっとそうじゃなくてちょっと相談があって……」
「ミクリに相談?」
「そう。そうなんだダイゴ」
ミクリは妖艶に目を細め、ゆっくりとダイゴの肩に手を置いた。鼻先が触れそうな二人の距離に、ハルカは思わず両手で頬を覆う。
(えっ、な、何なの?どうしてこんなに距離が近いの?そしてダイゴさんはどうして何も言わないの?どういうことなの?)
見てはならないものを見ているような気がして、ハルカの心臓はばくばくと悲鳴を上げた。目を逸らしたいのに、逸らせない。まるで絵に描いたように自然な二人に、ハルカはある疑問にたどり着いた。

「ねえ、あの……もしかしてミクリさんの恋人って、ダイゴさん……ですか?」
「えっ?僕がミクリと?」
「ふふふ。ハルカくんの目には、そう映ってしまったかな」
「えっ違うんですか?じゃ、じゃあお二人の関係って一体……」
ダイゴがちらりとミクリの様子を伺う。答えるべきなの、そう問いかけられた視線にミクリはゆっくりと微笑んで制し、ハルカに向き直った。
「とても大切な存在、かな。私たちは幼い頃からの知り合いでね。今までも共に生きてきたし、これからさきもずっと二人で生きていくつもりだよ」
「大切な存在……」
「そう、陳腐な単語では表せないくらいには、私はダイゴのことを大切に思っている」
「へ、へえ……深い関係なんですね」
「そう、友達でもあるし、もう家族のような存在でもある。かけがえのないパートナーかな」
「……何だか照れくさいね」
「ダイゴのそういうところが可愛くて飽きないよ」

ハルカはしばらくミクリとダイゴが近い距離で会話をするのをじっと見ていた。
改めて二人を観察すると、ダイゴもミクリもお互いの空気の中に溶け込んでいるようだった。ミクリがなにか喋り、ダイゴが優しく笑う。そしてダイゴがミクリに視線を投げかけると、ミクリはそっと肩に置いた手を滑らせてダイゴの腕や肩を撫でている。まるでポケモンに対するスキンシップのようにその手つきは優しく、そして自然だった。
ハルカの中で友達といえば楽しくワイワイ騒げる仲間であり、恋人といえばロマンチックに手を繋いで甘い言葉を囁き合う二人だと思っていた。しかし二人の雰囲気はそのどちらにも属さず、ただお互いがいるだけでその空気が心地いいのだろうとハルカは思った。
今までそんな関係に出会ったことがなかったハルカはとても新鮮だったが、ふと脳内でいつの間にか隣にユウキを思い浮かべてしまったところで我に返り、おもむろにガタリと席から立ち上がった。

「あたし、もう帰りますね!」
「おや、もう行くのかい」
「はい!何か、お二人の邪魔するのも申し訳ないし、あたしもやること思い出したんで!」
「そうか。気をつけてねハルカちゃん」
「良ければ外まで送って行くよ」
「ありがとうございます!でも、良いんです。ミクリさんは、ダイゴさんの隣にいてあげてください。それから、二人でずっとお幸せに!」
「えっ、ええ?ハルカちゃん、君何か勘違いしていないかい」
「してません!ミクリさんにはダイゴさんがいないとダメで、ダイゴさんにはミクリさんがいないとダメって今日分かりましたから!あとでちゃんとレポートにも描いておきます!」
「おやおや、几帳面だね。その調子で君の恋も叶うことを願っているよ」
「だから恋なんてしてませんってばー!」
ポン、とフライゴンをボールから呼び出してハルカは颯爽とその背にまたがった。
あっという間に上空に消えていったハルカを見送りながら、ダイゴは「君って大人気ないよね」とミクリの玄関に腰をおろす。

「彼女が恋愛のアドバイスを求めてきたからね。下手に何か言うより実際に見せたほうが手っ取り早いかと思って」
「ユウキくんにあんなテクニックは通用しないでしょ。彼案外鈍いところあるんだよ」
「お前もそうだったしなぁ」
「何それ。僕は鈍いんじゃなくて悩んでたんだから!」
「ふふ、それを今度ハルカくんに教えてあげたらどうだい」
「何も役に立たないと思うけどなぁ……」

リビングに置かれたハーブティーの香りが、風に運ばれて玄関先の二人をくすぐる。
爽やかなレモンとミントの香りは、二人が一番好きなブレンドだった。
もう一度、温かいものを淹れよう。
立ち上がりかけたミクリを制し、ダイゴはそっとキスをした。